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あおとのブログ

Aoto's Weblog

2007.04.25

「敗者」の言い分

あおと功英です。
見事に完敗いたしました。
しかし、1729票もいただけたことは、
まさにこれまで支えていただいた
皆々様のおかげです。
心から感謝を申し上げます。
ありがとうございました。


落選後のここ数日は、関係各所にお詫び行脚に伺っております。我が家のある西荻の街を歩いていても、いろんな方が声をかけてくれので、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。

私が選挙に出ることを知った地域の方からは、本当に多くのご要望を頂戴しました。地元の学校を守ってほしい。杉並の自然(三井の森や善福寺)を守ってほしい。今の福祉制度をなんとかしてほしい。区の民営化路線をなんとかしてほしい。セクシャルマイノリティを守ってほしい。そういった皆々様の声を区政に届けることができないかと思うと、無念でなりません。力不足により当選することができず、本当に申し訳ございませんでした。

ただ、私は落選いたしましたが、以下のお三方が区政を厳しくチェックしてくれると思いますので、以下のお三方に更なるご支援をいただきたく思います。

▼小野清人(社民党)
http://www.onoseijin.net/


▼奥山たえこ
http://www.jca.apc.org/~okuyama/


▼すぐろ奈緒
http://suguronao.seesaa.net/


ところで思えば、私の訴えていたことは、仮に私が当選していたとしても、これから社会がパッと明るくなる、何かが大きく変わるというものではなかったと思います。地元の学校を守る、自然を守る、セーフティネットを作る。それはむしろ、オリンピックをやりますよ~~という派手さよりも、学校を全面芝生化しますよ~~という派手さよりも、むしろ今あるものをこれ以上「壊さない」、「守る」、ないしは「戻す」ということかもしれません。言い換えればそれは、《改革》・《成長》よりも、「持続可能」な社会にしていくことを訴えたつもりです。

「光の当たらないところ」に光をあてる政治。それはたしかにマスコミのネタにもなりません。社会的な「弱者」を救うこと。しかし救ったところで、《正常》な人の、《フツー》の人の、生活が目に見えてよくなるということはないかもしれません。むしろ悪化するかもしれません。


しかし、だからと言って、「弱者」を、「負け組」を、そのまま放置しておいてよいのか。すべては《自己責任》と言ってしまってよいのか。


少なくとも今の政治の流れは、《自己責任》路線=《格差・不平等》容認路線です。そんなワケで選挙期間中は、パラパラと以下の本を読んでおりました(本なんか読んでいるから落選するんだという批判はご容赦くださいませ・笑)。

幸福論―〈共生〉の不可能と不可避について幸福論―〈共生〉の不可能と不可避について
宮台 真司 鈴木 弘輝 堀内 進之介

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「共生」というのは「不可能」である。「私」と「他者」とが「共に生きる」こと、それは「不可能」である。なぜなら、あらゆる社会というのは、何らかの選別と排除を通して作られているからである。
何らかの制度や枠組みを作るということ、しかしそこに境界線を設定するということは、「他者」を排除し、《ワレワレの社会》を作ることである。よって、「他者」との「共生」は、論理的に「不可能」なのである。


しかし、しかしである。「共生」が「不可能」であるとして、はたして「弱者」を放置しておいてよいのか、「負け組」を生み出し続ける今の制度を続けていてよいのか、ということである。言い換えれば、「共生」は「不可能」なのだから、「格差」は当然なのだから、「不平等」があるのはアタリマエなのだから、別に手当てする必要はないじゃないか!!と言ってしまってよいのか、ということである。


どーせ「不可能」なのだから、「共生」なんて目指さなくていい。どーせ仲良くなれないんだから、「アジア」は敵視していい!「弱者」はほっとけばいい。「負け組」になるのは《自己責任》だ!
今の社会は、そういう方向性に進んでいる。

「共生」は「不可能」である。しかし、「不可能」だからと言って、排除と選別を正当化した途端、この社会は、他者を蹴落とす競争と戦争が渦巻く社会に《改革》されてしまう。

「共生」は「不可能」であるが、しかし、「不可避」なのである!!「不可能」だからと「共生」をアキラメルのではなく、来るべき「共生」に向け、その理念を具体化すること。すなわち、“理念を具体化する不断の改革運動を社会民主主義と位置づけます”(社民党の『社会民主党宣言』より抜粋)。だから私、「あおと」は、この理念を掲げる社民党を選んだわけであります。

「不可能」であると知りつつ、「不可能」なままに行動すること、それはまさに「右翼」の行動原理です。だから私、「あおと」は、社民党は「右翼」を名乗るべきであると思う今日この頃です(笑)。
「光のあたらないところ」に光をあてる。しかしそこに光をあてた途端、その外には「光のあたらないところ」が広がっている。声なき声に耳を傾ける、それが「右翼」である。そんなワケで、選挙のちょっと前から以下の本も読んでいました(社民党のくせに右翼の本を読んでいるんじゃない!という批判はご容赦くださいませ・笑)。


右翼の言い分右翼の言い分
宮崎 学

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私の選挙期間中に、伊藤長崎市長が殺害された。1990年にも、本島長崎市長が銃撃されている。マスコミは、“言論には言論で”・“言論の自由へのテロ”とみんなでベタに報道しているが、はたしてそれでは、「右翼」には言論の自由はあるのか?言論の場を与えられていない者、この社会でまったく光をあたられていない存在は言論の場を与えられているのか!?、住民に言論の自由を与えないで開発を一方的に進める行政は一体なんなんだ!?などといろいろ考えていた。私は、社民党の一人として、選挙期間中、ずっとこのことを考えていた。
伊藤市長が殺害されるほんの数日前に、私はこの本を読んでいた。少し引用する。


宮崎学:“本島市長の殺害事件は、本島氏の「天皇の戦争責任」発言がきっかけとなって正氣塾の若島氏が本島氏を銃撃したものだと報道されています。しかし、その一方で本島氏の選挙などの際に、正氣塾が本島氏を応援していたとも聞いています。

正氣塾:“私たち正氣塾と本島さんとは、ごくごく親しい関係にありました。本島さんが初めて市長になったときにスキャンダルが出かけたんですが、それを止めたのは、うちの先代だったんです。(略)そんな関係を断ち切ったのが、本島さんです。そうした状況下で、我々はやむにやまれず、行動に及んだわけです。”


「やむにやまれず行動に及ぶ」。たとえば、イラクの「自爆テロ」。あれもやはり、やむにやまれずの行動ではないか。テロに対し“言論には言論で”と正論を述べたところで、イスラムの人にはそういう場はないであろう。そのような正論は、あらゆる意見の「違い」に対して、言論の場があってこそ成り立つものである。

しかし今の社会の流れは、どうなっているか。宮崎学氏の文を引用する。
“このデオドラントな社会は「異端」を極力排除するものであり、意見の違いを認めず、同じ顔、同じ考えを強要する。この最もデオドラントな社会こそ、北朝鮮の姿だ。そして小泉政権、これを引き継いだ安倍政権によって、日本は急速にこれに近づいている。少数の強者と多数の弱者に分別され、多数の弱者は、少数の強者への絶対的な服従者、奉仕者としての存在を強要される。これに異を唱えればいじめられ、排除されるのだ。”


今回、なぜ「あおと」が選挙に出馬したか、それはこの《デオドラントな社会》に「異」を唱えたかったからである。そして負け組としてのワレワレに、言論の場がなかったからである。だからこそ、「やむにやまれず」選挙に出た、とご理解いただけると幸いです。


もちろん当選するつもりで行動していたが、当選「不可能」とも言われていた。しかし、だから何なんだ、というつもりで行動していた。たとえ「不可能」だとしても、やむにやまれず、「共生」社会のために、行動したのである。以上、「敗者」の言い分である。


それはおそらく、今回、杉並区長選に出馬された、「とりう千恵」さんもそうなのではないかと思う。とりうさんは、私以上に当選「不可能」な状況であったと思う。しかしそれでも出馬してくれた。心から感謝を申し上げたい。

▼とりう千恵
http://toriuchie.com/


そして最後に、もう一人。私の同志を紹介させてください。かつてあのダイエーホークスの投手・工藤は、高卒ルーキーの捕手・城嶋のサインを、たとえそれが間違っているとわかっていても、そのサイン通りに投げたという。私も今回の選挙では、それを実践したつもりである。


ピッチャー青砥にとってのキャッチャーは、年下の生意気なクソガキ、社民党の“問題児”、「いなもりとしなお」であった。
http://www.geocities.jp/inamori2009/index.html
この当選「不可能」な選挙で、1729票もいただけたのは、まさにこの「いなもり」のおかげです。これまで数々の問題を起こし、これからも数々の問題を起こすと思いますが、その際は皆さん、鉄拳制裁でもしてやってください。イナモリ君、ありがとう。
ぜひ次回の選挙で当選されることを期待しております。


そして最後に。これまでご支援いただいた皆々様、本当にありがとうございました。心から感謝を申し上げるとともに、皆々様の「幸せ」を心からお祈り申し上げます。


(追伸)
とりあえず私は、シューカツします。求人サイトにすでに3社登録いたしました。これからもワーキングプアとしてがんばります。

投稿者:aoto 13:04 | コメント (10)

2007.04.14

実るほど コウベを垂れる 稲穂かな

いよいよ明日から、選挙本番となりました。これまで「非国民」!「売国奴」!「うるせーよ」!などと数々の批判を受け、時にはへこたれそうにもなりましたが、ここまでこれたのも、ひとえに皆々様のおかげです。そういう言葉を投げつけてくれた皆々様も含め、本当に心から感謝を申し上げます。ありがとうございました。
明日から、地域の皆様には大きなマイクでお騒がせするかと思いますが、何卒ご理解いただけますと幸いです。


私、「あおと」は、日本全国《均質空間》化に抗いたいと思っています。どこもかしこも同じ風景、同じ町並み。この杉並区でも、そのような事態が発生しています。

中央線沿いの「文化」、そして井の頭沿いの「自然」、やはりこれらを「保守」したい。憲法を「保守」し、「杉並らしい街」を残したい。そして地域社会の中心、防災の拠点、住民交流の場として、地元の学校という「場」を活かしていきたいと思っています。この郷土を愛する、真の「パトリオッツ」として行動してまいりたいと思っています。

そして、《一部の勝ち組》と呼ばれている連中によって牛耳られているこの社会、そして政治を、ワレワレの手に取り戻すこと。それを成し遂げる所存です。それはまさに、杉並の憲法こと、『自治基本条例』の理念に殉じる行動でもあります。

このまま、そこにどんなに「格差」を広がろうとも、「介護難民」が生まれようとも、漫画喫茶で寝泊りする「若者」が生まれようとも、このまま経済《成長》と称して《成長》路線に突き進むのか、あるいは、人口減少社会=少子高齢化に対応した「街づくり」を行うのか、言い換えれば「持続可能」な社会にしていくのか、それが問われていると思います。もちろん私の立場は、後者です。

本当にこれまでへこたれそうなこともありました。しかし、そんな「私」を支えてくれた皆々様に多大なる感謝を申し上げます。皆様のため、杉並のため、そして「自分」のために、全力で行動してまいる所存です。

実るほど
コウベを垂れる
稲穂かな


決して調子に乗ることなく、実れば実るほどコウベを垂れる稲穂のように、地道にコツコツ、地域の皆様との対話を繰り返しながら、行動してまいります。
これまで、本当にありがとうございました。そして今後ともご指導・ご鞭撻のほど、何卒よろしくお願い申し上げます。


(追伸)
『あおと功英事務所』
住所:西荻南2-25-9
TEL:03-6768-0412
「西荻南郵便局」の前にあります。→地図はこちら
いつでも皆様のご来場をお待ちしております。


投稿者:aoto 22:43 | コメント (8)

2007.04.08

社会はどーせ変わらない

社会はどーせ変わらないじゃん。


とナウなヤングに飲み屋で言われました。政治と宗教ネタは禁句の飲み屋で最近よくからまれる。みんな不満が溜まっているんだろうと感じる。その人の不満は、怒りは、どこから来るのか、それを見極めたいと話を聞きながらいつも思う。


社会はどーせ変わらないじゃん。


しかし、そのナウなヤングの思いとは裏腹に、社会はどんどん変わってきた。《改革》という言葉が象徴するように、社会は《改革》され、変わってきたのである。


社会はどーせ変わらない。そうであるならば、この社会で生きていくためには、自分を変えるしかない。自分を変えることができないのは、自分の責任、《自己責任》。社会で認められ、他人(市場)に評価される人間になれるよう、自分を変えていくしかない。


《自己啓発》の本を読めば、時に“やる気”は出る。クスリを飲めば、時にテンションが上がる。ミクシー(SNS:Social Network Service)や出会い系をやれば、なんとなく寂しさは癒すことができる。いずれにせよ、自分は変わったように感じる。しかし、そのテンションは続かない。
この変わり続ける流動的な社会で生きていくのは、正直シンドイ。


《自己実現》できるかどうかは、《自分》次第。しかしこの社会で《自己実現》するには、シゴトを通して市場に評価される人間になるか、カイモノを通して《自分》を満たすか、それくらいしかないのではないか。《シゴトによる自己実現》と《消費による自己実現》。すべてが数値化され、モノもココロも「売ってはならないもの」も価格表示されるこの《消費社会》において、《自己実現》。しかしその実現すべき《自分》というのは、「自分」ではなく、市場によって規定された《自分》でしかない。すなわち、この社会で《自己実現》するということは、逆に言えば、「自分」を捨てることではないのか。この社会で《自己実現》しようとすればするほど、この世にただ一人の「自分」を捨て、市場でいつでも他人と交換可能な《自分》にならねばならない。


《自分》が死んでも誰も悲しまない。。。そういう思いを抱いているヤングによく出会うが、《自分》の替わりはいくらでもこの社会にいるのである。《自分》と同じよな人間は市場にいくらでもいいるのである。何か条件を入れて、検索すれば、いくらでも見つかるじゃん。
社会で生きていく意味を見出せなくなるのは当然かもしれない。


社会はどーせ変わらないじゃん、と思い込む・思わざるをえない人が増えれば増えるほど、この社会は権力の思うままに《改革》され、どんどん変わっていく。そしてワレワレは、《自己責任》を迫られる。そして《(再)チャレンジ》を迫られる。


社会はどーせ変わらないじゃん。だから、なんとなく、何かやってくれそうな人に投票しよう。そして、当選した何かやってくれそうな人たちはいろいろやってくれた。いろいろ《改革》してくれた。社会をいろいろ変えてくれた。“人生いろいろ会社もいろいろなんです”社会になりました。


私、あおとは、こういう社会にまったく興味がない。市場で評価されることにまったく興味がない。だからこそ逆に、こんな社会は変えたいときわめて冷静に思うのかもしれません。


(追伸)
上記の文章は、飲み屋でからまれて酔っ払いながら書いた文章ですので意味不明かもしれません。

投稿者:aoto 03:33 | コメント (3)