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あおとのブログ

Aoto's Weblog

2007.03.30

「難民」化する被災者

今回の能登半島地震。たしかに死者は少なかった。しかし最近の映像を見ていると、やはりそれは、被災者が「難民」化していくのではないかという危惧である。


政治的にまったく無力な存在の生のあり方を哲学者ジョルジオ・アガンベンは、「剥き出しの生」と呼んだ。現代社会において「難民」たちは、政治的に無力になることを通じてかろうじて生き延びることができる。

『魂の労働 ネオリベラリズムの権力論』(青土社 渋谷望)で、渋谷氏は以下のように述べている。

魂の労働―ネオリベラリズムの権力論魂の労働―ネオリベラリズムの権力論
渋谷 望

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あらゆるものを個人のリフレキシブルな自己決定に委ねる社会は、結局、何も決定できず、市場の圧力だけが唯一の現実的な基準となる。”

二大政党が推し進める何でもかんでも《自己責任》という政策。それは、「被災」するのも《自己責任》ということなのであろうか。お金のある人は、《市場》を通して、様々な防災対策を行える=つまりそれは《買える》かもしれない。しかし今や、お金のない人、しかも「地方」の、しかも「高齢者」は、一体どうすればよいというのだ。

渋谷は、さらに言う。
“自己責任言説がハイ・テンションな自己啓発に結びつくことはきわめてまれである。われわれの経験では、自己責任言説は、より低いテンションの宿命論により親和的である。
自己の運命はもはや手の届かない自己の外部にあり、自分ではどうすることもできないものとして立ちはだかっている。
未来との関係性で現在を位置づける生き方はもうできないという感情は、宿命論を受け入れる素地となろう。”


《自己責任》と言われても、果たして《自分》はどうしたらいいのか。。。こういった想いを抱くものは、決して少なくないはずだ。それは結局、《自分》ではどうすることもできない、そういったアキラメの感情とともに、《宿命論》を受け入れることになる。こういった状況を、渋谷氏は、あの1995年の阪神大震災を例に説明している。

“阪神大震災後、仮設住宅が建設され、多くの被災者が入居した。仮設住宅はいわば国内避難民に対する難民キャンプの機能を果たしたといえる。《仮設》住宅とはあくまで《仮》のものとして設置されたわけである。
しかしやがて、市街地の復旧とともに、くしの歯が欠けるように徐々に人の数は減っていき、高齢者、しかもなかでも他に行くあてのない身寄りのない者だけが取り残されるようになっていった。ある意味で、真の「国内避難民」に相当するのは彼らである。というのは簡単に故郷に《帰還》できる、十分な生活力をもつ者は、もはや「難民」ではないからである。
(取り残された)仮設住宅の住人は、しばしば「わけのわけのからない死に方をする」という。何が「わけのわからない」のか?仮設住宅で多発する死は、限りなく自死に近い事故死や病死だからであり、せっかっくあの大震災から命を救い出された者にとってふさわしくないし、またすべきではない死に方のように感じられるからである。~(略)~これを、すでに仮設住宅で使われていた呼び名にならって「孤独死」と捉える。”


この「孤独死」こそ、これから能登半島で増えていくのではないかと危惧せざるを得ない。死者はたしかに少なかったかもしれないが、「未来」を閉ざされ、《自分》ではどうすることもできない、生きていても仕方がない、と《自分》の《宿命》を受け入れ、孤独に死んでいくものが増えていくのではないか。。。
さらに渋谷氏は、ここで《ホーム》という単語に敏感に反応し、《ホーム》が「壊れ」た例として、「強制収容所」、「難民キャンプ」、そして「ホームレス」、そして「仮設住宅」という例を挙げ、これらにおいて《生きていても仕方がない》という感情の共通性を見出す。

ホームレスとは何か?
それは《ホーム=家》を奪われた存在である。

《ホーム=家》を奪われた存在…。それは言い換えれば、「居場所のない」存在である。今、多くの若者も感じている、この社会に《居場所=ホーム》がないという感覚のことである。
そしてこの社会とは、言うまでもなく、《市場》の圧力だけが唯一の“現実的な基準”となっている社会のことである。《市場》に参加できないものは、言うまでもなくこの《社会》から排除されていくのだ。

震災はこのミニマムな人間関係(=ホーム)を破戒し、彼らを「ホームレス」にし、仮設住宅にいわば棄て去ったのである。この意味でここに残された者たちは棄民となる。また生きる意欲を失うことによって、最終的に彼らは自己自身を棄民に変えてしまう。”

居場所がない。ホームがない。
今、ワレワレは、《自己責任》言説のもとで、ライフラインもセーフティネットも子どもたちの教育も高齢者の福祉も《民営化》され、《市場》の論理だけがまかり通る社会において、結局、誰に頼ることもできず、居場所を失われ、生きていても仕方がないという感覚を抱きながらもはや死んでいるように生きているのである。

この《自己責任社会》、何としても変える。
この《現実》を仕方がないといってアキラメ、《自分》の《宿命》を受け入れるのではなく、「未来」との関係性において、この現実を変えていくこと、それこそが「政治」であると私は思っているからである。


投稿者:aoto 01:02 | コメント (2)

2007.03.22

ここ数日の活動報告です。

ここ数日の活動報告です。
動画でご覧くださいませ。











まだまだ無名の私ですので、先輩方が駆けつけてくれました。時にはこういった集会もやらせていただきますが、やはり地域のために、住民の皆様に密着して地道に活動を続けてまいります。
理論武装はできています。大政党の進める《改革》という言葉にだまされることなく、たとえ若手の新人であろうとも、即戦力ルーキーとして、気合い入れて行動してまいる所存です。
土井さんがお話されている「憲法99条」は以下の通りです。
天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う。
国家権力の横暴を食い止めるもの、それが現在の「日本国憲法」。今、国家権力が、その憲法を《改正》したいとおっしゃっております。国家権力の横暴に歯止めをかける現在の憲法を、《改正したい》と言うのは当然かもしれません。しかし、それを許すことは、まさに権力の横暴を許すことです。
私、「あおと」は、憲法の「理念」で、この現実(格差社会=愛国心)を変える所存です。議員には、その憲法を尊重し擁護する義務があります。議員の掲げる行動理念、それは憲法に他なりません。それを無視する、ないしは知らないフリをする議員は、まさに自ら“横暴します”と言っているようなものではないでしょうか。

投稿者:aoto 03:14 | コメント (6)

2007.03.15

杉並で考える。

たとえばかつて、筋肉少女隊の大槻ケンジは、“日本をインドにし~てしまえ!”と歌った。

なんでも中央線沿線には、いまでもヒッピー文化が残っており、「中央線はインドに通じている」という言葉もあるとか。

そういえばインドに行ったことのある友人は、だいたい中央線沿線に住んでいるというウワサも(笑)


そんなワケで、かつてインドに行ったことのある私は、言うまでもなく中央線、しかも西荻に住んでおります。ちなみに以上の会話は、哲学者の東浩紀さんと北田暁大さんの対談から引用いたしました。

かつて西荻の「あおと」の家の近くに住んでいた東氏(東氏と言っても、そのまんま東さんではございません)がこんなことを言っておりました。

“たとえば、西荻窪は古本屋が多いので有名なんですが、そういう店に行くと、思想書とか文芸書とかサブカル本とかえらく豊富なんですね。新刊本屋でも普通に僕の本が置いてありますし。”

はい、そんなワケで「あおと」は、下記の東浩紀氏の本を西荻窪の新刊本屋で買いました。この手の思想関係の本は、TSUTAYAとかスタバとかが乱立している“ファースト風土店”で覆いつくされている街の本屋では滅多に売っていないと思います。が、東氏が言うように、西荻の本屋さんにはやはり売っています。

東京から考える―格差・郊外・ナショナリズム東京から考える―格差・郊外・ナショナリズム
東 浩紀 北田 暁大

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東:“(西荻は)基本的に、サブカル学生か全共闘くずれの団塊オヤジに特化しています。変なところですよ。”
東氏が言う「変なところ」、そこに私はトリツカレ、「西荻」に住んでいるわけである。
ところで幼い頃、私は《郊外》に住んでいた。《郊外》の典型は、《国道16号線》沿いにある街である。ちなみに《国道16号線》沿いには入間(埼玉)・習志野パラシュート部隊(千葉)といった自衛隊の基地や横須賀(神奈川)や横田(東京)といった米軍基地もあり、一説には首都・東京をぐるっと囲む首都防衛環状道路とも言われる。杉並区には環七・環八が通り、そしてその外周の国道16号線で、首都東京を“防衛”しているのである。

先日は石原都知事によって、『東京マラソン』と称して“首都東京・大規模軍事演習”が行われたが、そのうち国道16号線を全線ストップさせ、『国道16号・24時間耐久マラソン』や『国道16号駅伝』などが行われるかもしれない。その際は、私も黄色いTシャツを着て、ZARDの『負けないで』を歌いながら、『愛は地球を救う・24時間マラソン』をやってみたいと思う。さらにその際は、皆様からのFAXでの声援をお願いいたします。ぜひ、“あおとさんの走っている姿を見て、私も生きる勇気をもらいました”・“感動をありがとう”といったメッセージを送っていただければと思います。私といたしましては、『サライ』を歌い始める時間帯にぴったりゴールできるよう、途中はバスで移動したいと思います。

思いっきり脱線してしまったが、《国道16号線》沿いの街並みは、つまりどこも《みんな同じ》風景なのである。“ファミレスやジャスコなどの大型ショッピングセンター、ファーストフード店”などが軒を連ねている均質空間なわけである。これを“ファースト風土”化と社会学者の三浦展は言っている。そしてこの《ファースト風土化》が、かつての郊外ではなく、今や東京都内でも進展している。つまり、北田氏や東氏の言うように、《東京という巨大な郊外》ができあがろうとしているのである。

一方、そうした《均質空間》に対し、たとえばこの杉並区、特に中央線沿いの高円寺・阿佐ヶ谷・西荻などは、「匂いのある」街である。杉並区外では、世田谷の下北沢や新宿ゴールデン街などもそうである。

しかし、ここで問題が生じるのである。その典型例が、下北沢の再開発である。東氏が言うように、“杉並区の中央線沿線なんて比較的ごちゃごちゃしているけど、あそこもいつか大幅に再開発される”のだろう。そしてここでの問題とは、「匂いのある街」は、たとえばフツーの住人にとっては、ただの乱雑な場所でしかない、とうことである。

たとえば、西荻駅前の飲み屋街。そこに住民が日常的に行くかと言えば、そんなことはない。あきらかに、子育てしやすい街ではない。しかし、そういう街の「匂い」は残しておきたい。《ファースト風土》化=再開発させたくない、とも思うわけである。そこに葛藤が生まれるのである。

たとえばこの時期、各陣営・各候補者がこんなことを言っている(私も言っている)。

《安心して子育てできる街づくり》。

しかし、それをベタに実現しようとするなら、明らかに中央線沿線の乱雑な場所は、再開発するしかなくなるのである。

さらに、この杉並区ではこんなことも、各候補者が言っている。

《合計特殊出生率が23区内で21位の杉並区。子どもを安心して産み・育てられる街づくりが必要です》

しかし、それをベタに実現しようとするなら、合計特殊出生率の多い江戸川区や江東区といった東京の東側地域のように、工場跡地にワレワレの世代が住みたくなるような高層マンションをばんばん建てて《均質空間》を作るのが最も手っ取り早い施策になるのである。たんに子どもを増やしたいなら、多くの土地を民間に売却し、緑の公園も取り潰し、マンションを建てるのがもっとも手っ取り早いのである。少なくとも、ワレワレ子育て世代にとっては、東京の西側(中央線沿線)よりも、東側(江東デルタ地帯)のほうが圧倒的に人気のスポットなのである。

さらに、こんなことを特にワレワレ左翼はよく言っている。
《障がい者にもやさしい、バリアフリーの街づくり》

しかし、それをベタに実現しようとするなら、明らかに駅前のゴチャゴチャしている地域は、バリアフリー化のためにキレイに舗装し、再開発が必要になるのである。

すなわち、「匂いのある街」=「古きよき街なみ」=「個性のある街」=「面白い街」というのは、“子育て・バリアフリー”といった論理、さらにこれに“防災やセキュリティ”という論理を持ち出すと、とたんに論理的に維持できなくなるのである。

すわなち、《安心・安全な街づくり》の論理をベタに実行すると、「美しくない」「匂いのある街」は明らかに消失していかざるをえないのである。そして、どこもかしこも同じように《キレイな町並み》=《東京という巨大な郊外》=《高層マンションと大型店舗》を作らざるをえないのである。

“「匂いのある街」を、多様性擁護という観点から擁護するのは難しい”by北田氏

つまり、お年寄りも、子どもたちも、みんなにとって安心・安全な街づくりをするとなると、街の「匂い」は消えていただかねばならないのだ!「多様性」のある街、という観点からすると、全共闘くずれに特化している街や若者だけが集う街は消えていかざるをえない。。。しかし、私としては、やはり街の「匂い」は守りたい。

以上のことを葛藤を抱えながら考えると、「とりあえず」の私の意見としては下記のようになる。とても歯切れが悪いです。

▼緑の環境は増やしたい。「匂いのある街」は守りたい。したがって、高層マンションはいらない。よって、杉並区の合計特殊出生率の少なさは、ある程度、受け入れざるをえない。よって少子化対策は、おそらくそれほど必要ない。一方で、子どもが減っているのであれば、むしろその分、手厚く多様な子育て支援を行えるのではないか。

▼駅のバリアフリー・メインストリートのバリアフリーは不可欠である。だからと言って、「匂い」のある地域に入ったら、むしろそこは、工学的にバリアフリーにするのではなく、やはり「人の力」で支えあい・助けあいを行っていただきたい。

▼この杉並区、以上を考えると、子どもが減っていくのは仕方がない。しかし、「若者」は、その「匂い」に憧れて、たくさん全国から集まってくる。しかもその「若者」の多くは、高い住民税は払いたくない、よって杉並区に住民票がない。「若者」が杉並区民になりたくなるような政策として、やはり若者の文化・芸術活動の支援を行うことも必要だと思う。

なんだか歯切れの悪い答弁になってしまい申し訳ございません。皆々様からのご意見・ご要望を聞きながら、もっと深め、勉強してまいりたいと思います。住民参加の地方自治を、「あおと」は実行してまいります。

投稿者:aoto 03:58 | コメント (655)

2007.03.09

希望は、戦争。

雑誌『論座』で、ある私と同じ年のフリーター・31歳が、こんなことを言っていたらしい。

〝一部の弱者だけが屈辱を味わうような平和なら、国民全員が苦しむことになる戦争のほうがいい”

思わずこの言葉を聞いたとき、ついつい私も応答したくなってしまった。


ある知人が、下記のURLを教えてくれた。

▼『MouRa┃萱野稔人「交差する領域」』
http://blog.yomone.jp/kayano/2007/03/post_98c7.html

この記事に登場する赤木氏は、〝31歳のフリーターで、親と同居している。しかしそれが彼には屈辱的でたまらない。そんな赤木氏にとって、戦争は希望だという。なぜか。それは、戦争が社会を流動化し、現状をひっくり返してくれるかもしれないからだ。

〝現在フリーターの若者たちは一生貧困のなかで屈辱を味わいつづけなくてはならない。戦争は、そうした現状をひっくり返してくれるかもしれない「希望の光」なのだ”

上記の赤城氏の主張に対し、ワレワレ『社民党』+〝それ系”の人たちが応答している。しかし、それは萱野稔人が言うように、やはり赤木氏にとってはただの〝お説教”であり、むしろ逆に、〝彼の感情をかたくなに”してしまうのだろう。

赤木氏は、まさに〝団塊ジュニア”の声を「代弁」しているような気がした。たとえば、三浦展氏はこんなことを書いていた。団塊ジュニアは、〝受験は大変だった。希望する大学にも入れなかった。就職にも失敗した。だが、起業はできる。起業して失敗しても再チャレンジしよう。そう今、国は言っている。”(『難民世代』三浦展・NHK出版)

貧困のなかで屈辱を味わいつづけている、この〝現状”をひっくり返してくれるもの。それが赤木氏にとっては〝戦争”であり、〝再チャレンジするやる気のある人”にとっては〝起業”であり、そして「あおと」にとっては選挙なのかもしれない。

私もよく、選挙で当選すれば〝一発逆転”人生だね、とよく言われる。そんなときは、反論するのが面倒くさいので、〝ハイ、そうです”と言うことにしているが、そういう言葉を聞くたびに、これまで同じような状況にいたものからの〝嫉妬”や〝妬み”というものを、ヒシヒシと感じる。ワーキングプアの31歳が選挙に出るということ、それはまさに〝再チャレンジ”であるかもしれない。まさに、《権力に取り込まれている》、と言えるのかもしれない。

萱野実人が引用している赤木氏の文章を、私も引用してみる。

〝我々が低賃金労働者として社会に放り出されてから、もう10年以上たった。それなのに社会は我々に何も救いの手を差し出さないどころか、GDPを押し下げるだの、やる気がないだのと、罵倒を続けている。平和が続けばこのような不平等が一生続くのだ。そうした閉塞状態を打破し、流動性を生み出してくれるかもしれない何か――。その可能性のひとつが、戦争である”

萱野稔人は言う。

〝そうした感覚のまえでは、「社会の構造を地道に変えていこう」というような意見はキレイゴトに映るにちがいない。

さらに萱野氏は言う。

赤木氏の〝戦争への希望のうらには、社会に居場所がないという感覚がある。”

《社会》に居場所がない。。。

そして萱野氏は言う。

〝かつて、社会のなかに居場所がない人間に居場所をあたえ、そうした人間の人格を認めてきたのはまさに右翼やヤクザであった。ひとは、正しいことをいう人間に、ではなく、自分を認めてくれて居場所を与えてくれる人間についていく。

萱野氏が言うように、居場所がない人間に居場所をあたえ、そうした人間の人格を認めてきたのはまさに「右翼」や「ヤクザ」である。その意味で私、「あおと」は、「右翼」や「ヤクザ」であろうと常々思っている。

そして、いつも感じることがある。地域のことを知れば知るほど感じることがある。社民党の支持基盤は、「居場所のない人間」よりも、むしろ時間的にも経済的にも〝余裕”のある、いわゆる知的なインテリ層の方が圧倒的に多いのではないか、と。ワレワレ『社民党』の〝平和”・〝護憲”。そのメッセージは、まったく「居場所のない人間」には届いていないのではないか、と。

私もよく街頭演説では、キレイゴトを並べ立てている。すわなち、いわゆる選挙に毎回行ってそうな『社民党』ファンをターゲットにした演説をしているのである。選挙で当選することを考えるならば、それが最も手堅い手段なのかもしれない。しかし、そこにはいつも葛藤がある。こんなキレイゴトを並べても、「居場所のない人間」にはただの「ノイズ」でしかないのではないかと。

これまで私は、この社会から「ダメ人間」という烙印をおされてきたものたちに、〝居場所”を与えてきたという自負がそれなりにはある。恥ずかしながら言ってしまえば、宗教者のようなことをしてきたのかもしれない。そういう「居場所のない人間」からおカネを取っていれば、けっこう儲けることができたのかもしれない。ただ、それだけは、ただ単にやりたくなかったので、してこなかった。

いずれにせよ、《社会》に「居場所がない人間」に対して、言葉を伝えるということ。しかし思えば、少なくとも私は、言葉を伝えてきたというタメシはない。ただ、ただ、そばにいただけである。ひたすら話を聞いていただけである。

《社会》に「居場所がない人間」に対して、言葉を伝えるということ。しかし、そもそもそれは可能なのか、といつも思う。つまり、「居場所がない人間」との対話は可能なのかと。むしろそれは、「不可能」なのではないかと。

いつも感じるのは、その「不可能」であるということの悲しさである。なぜなら、自分と居場所のない他者とは「違う」以上、つまり《同じ》ではない以上、そして《わかりあう》ことができない以上、ただただ、私と他者とは「わかりあえない」という悲しさを受け入れるしかないのである。すわなち、《社会》の「外」にいると感じているものたちに、《社会》の中からの言葉を届けるのは「不可能」なのではないかと。(実際は、「フリーター」とはまさに、《社会》の「外」ではなく《中心》で酷使されている低賃金労働者なのだが)

人はえてして、《自分》と「違う」ものに対し、《怒り》でもって応答しようとする。
《自分》と「違う」、その《自分》の思い通りにならない他者に対して、怒り狂うのである。人は《自分》の思い通りにならないものに対してこそ怒る。《幼児的な全能感》が満たされないときに《怒る》と言ってもよいかもしれない。しかし、怒ったところで、何が変わるというのか。赤ん坊なら側にいる大人が寄ってきてくれるかもしれないが、大人がそんなことをしていたらみんなから相手にされなくなるであろう。
わかりあえない、ということがわかっている。「無知の知」なるその絶望的な悲しさを知っている者こそが、その居場所のない他者と「うちとける」ことができるのではないかと思う。

ただ、いつかその「居場所のない人間」に対し「居場所」を与えることができた後に、こう言いたいとも思っている。

居場所はあくまでも居場所にすぎない。そろそろ自分の居場所を、他者に譲ったらどうかと。それが萱野稔人の言う「社会化のプロセス」の一つではないかと、今のところは考えている

そして私としてはまず、この《一部の者たちによって居場所が占拠されている社会》を変えたいと思っている。そして「居場所」をあえて「セーフティネット」と言い換えるなら、その「居場所」があるという「安心」感があるからこそ、ひとまず居場所は他者に譲って、「自分」が「自由」に行動しようと決意できるのではないだろうか。まずはこの理念をもとに、制度設計を行っていきたいと思っている。


(追伸)

そして最後に。この「キレイゴト」。たしかにその「キレイゴト」を社民党は言っている。しかし、時として、その「キレイゴト」を本気で訴えている先輩方を直接拝見すると、思わず「右翼」的に感染してしまうことがある。意味よりも、そのスゴさに感染してしまうのだ。その一人が、こんど私の集会に来てくださる、土井さんであり、吉武さんであり、新谷さんである。
歌手の新谷のり子さんは、かつてこんな葛藤をしていた。〝私が歌っているのは、ただのキレイゴトではないのか。。。”そんなとき、ある知り合いにこう言われたそうである。

キレイゴトを歌い続けなさい。

この言葉で、新谷さんは、吹っ切れたとおっしゃっていた。キレイゴトを歌わない「自由」もあるが、キレイゴトをそれでもあえて歌い続ける「自由」、それもまたきわめて大切なことだと思う。

▼『若い「あおと』に平和への想いを託す会』

event1.jpg
http://aotokoei.com/event/

参加者まだまだ募集中です!!
お問い合わせは「あおと」までお願いいたします。下記のメールアドレスを、お使いのメールソフトの宛先欄に入力して送信してくださいませ。
event1.jpg

投稿者:aoto 23:48 | コメント (3026)

2007.03.05

フルキャストスタジアム・グッドウィルスタジアム

先ほど、フジテレビを見ていたら、最近、『ネーミングビジネス』が流行っているとのこと。

ちなみに私は、「パリーグ」が好きである。理由は、私が「社民党」を選んだのと同じような理由である(笑)。

たとえばかつて、こんな試合があった。

南海ホークスVSロッテオリオンズ
@川崎球場

キャッチャー香川
ピッチャー村田兆治
四番DH門田,,,

みたいなアナウンスが流れたら、もう思わず涙が出てきてしまう。

DHバナザード
DHリー
みたいなアナウンスが流れた暁には、もう思わずあのバッタみたいな緑色の帽子をかぶって、大阪球場まで応援に行きたくなってしまいそうな勢いである。

もう、マニアにはたまらない「匂い」を感じるのである。そんな時代が懐かしい、と感慨に耽りたくもなるのである。

そんなワケで、今ハヤリの『ネーミングビジネス』。なんだか判断を保留したくなる。

たとえば、西武ドームが、「所沢狭山湖スタジアム」とか「狭山茶スタジアム」とか「もうすぐ秩父ですスタジアム」とかだったら、私は賛成するかと思う。

しかし、西武ドームが《グッドウィルスタジアム》となり、県営宮城球場が《フルキャストスタジアム》になるというのだから、それはやはり「反対」したくなる。

グッドウィルにフルキャスト。。。この名前を聞いたら、低賃金労働のワーキングプアのハケン労働者が目の前に浮かんでしまうのである。
今、杉並区でも、なんでもかんでも《民営化》とのことで、様々な「公共サービス」が《民営化》されている。もちろんそこで働いている皆さんは「非正規雇用」。平均時給900円である。
たしかに《民営化》されれば、利用者は《お客様》として扱われ、なんだか《お客様は神様です》みたいな扱いを受け、《満足》かもしれない。国鉄がJRになったおかげで、挨拶してくれるようになった、みたいに。

しかしそのおかげで、利益の出ない分野の「公共サービス」はどんどん消えていく。低所得の人は、利用すらできなくなっていく。

はたして、介護、医療、子育て、こういった分野を《民営化》してよいものなのでしょうか?
もちろん、おカネのある人は、“安心・安全”を民間企業のサービスを通して《買う》ことができます。
しかし、おカネのない人は、“安心・安全”を買うことはできません。すべて《自己責任・自己負担》ですから、負担するおカネのない人は、「不安」のままに放置されます。

今、“安心・安全”は、《買う》時代です。“安心”する、という“心”を売り買いする時代です。“愛国心”、という“心”の支配が生まれている時代です。
“心”が売買され、管理監視される時代です。

こんな時代じゃ、「安心」して生きていくことなんて、まったくもって無理だと思います。

投稿者:aoto 02:36 | コメント (3)

2007.03.02

あの「きっこのブログ」が社民党支持

実は私、「あおと」は、ぶっちゃけてしまうと、これまで民主党に投票していました。しかし、たとえばこの杉並区。民主党はほぼ与党です。思いっきり《新自由主義》です。《自己責任》と称して、憲法25条が保障する「健康で文化的な最低限度の生活」(生存権)=セーフティネットをどんどん切り捨てています。あんまり他党を批判して自分の正当性を主張することはやりたくないですが、ちなみに私は、もうこうなったら社民党しかないでしょ!!ということで、一昨年「社民党」に入党いたしました。



ところで、あの『ゴーマニズム宣言』の小林よしりんが、あの保守系雑誌『SAPIO』でこんなことを書いております。

“主体性を完全に喪失した今の日本、日米同盟・絶対主義、アメリカ追従の日本では、憲法改正は米英と共に侵略戦争にも加担する「醜い国」をつくる契機になりかねない。
憲法改正が「自主独立」のためでなく、「日米同盟の強化」のものであり、米国の属国化を進めるものならば、わしは「護憲派」にはならないが、「現時点での憲法改正に反対」の立場に回らねばならない!
侵略戦争をアメリカと共にやるのか?
日本列島をアメリカ本土の防衛の楯として利用するのか?
この二問に明確な回答が得られぬ限り、わしは憲法改正には慎重な姿勢をとらざるを得ないだろう。”主体性を完全に喪失した今の日本、日米同盟・絶対主義、アメリカ追従の日本では、憲法改正は米英と共に侵略戦争にも加担する「醜い国」をつくる契機になりかねない。憲法改正が「自主独立」のためでなく、「日米同盟の強化」のものであり、米国の属国化を進めるものならば、わしは「護憲派」にはならないが、「現時点での憲法改正に反対」の立場に回らねばならない!
侵略戦争をアメリカと共にやるのか?
日本列島をアメリカ本土の防衛の楯として利用するのか?
この二問に明確な回答が得られぬ限り、わしは憲法改正には慎重な姿勢をとらざるを得ないだろう。”

さらに、あの『きっこのブログ』も「社民党支持」を表明しています。
http://kikko.cocolog-nifty.com/kikko/2007/03/post_255b.html
“‥‥そんなワケで、あたしは、政党で言えば、社民党を支持してる。それで、何で社民党を支持してるのかって言うと、過去に書いたことを何度も繰り返すのはメンドクサイんだけど、ロクに過去ログも読まずに人を批判するアホがいるので、念のために書いとくと、医療や福祉に関する政策理念が、すべての政党の中でもっとも理想的なのが社民党だからだ。”
“拉致被害者を支持率稼ぎに使いながら、「障害者自立支援法」だの「リハビリ打ち切り制度」だので社会的弱者をイジメ続けてる自民党なんかよりも、社民党のほうが何万倍もマシだと思って支持してる。”

私もよく、選挙に受かりたいなら、民主党のほうがいいのではないか!?と友人・知人に言われます。しかし私は、民主党で受かっても意味がない。政治屋になるつもりはない。この杉並区議にも、これまで無所属だったのに、選挙間際に民主党だの自民党だのに鞍替え?する人がたくさんいます。まったく
「理念」もへったくれもありません。ちなみに私は、社民党の掲げている「理念」を掲げて政治を行うことこそ、自分の使命だと思っています。
もうこうなったら社民党しかない!社民党の一人として、それがたとえ自分にとってマイナスイメージになろうとも、社民党の「理念」を実現すべく、行動してまいりたいと思います。

投稿者:aoto 18:02 | コメント (218)

2007.03.01

ロックンローラー

街頭演説をやっていると、いろんな方が声をかけてくれます。ありがたいかぎりです。もちろんダメ出しもいただきます。ありがとうございます。もちろん、うるせー!と耳打ちしてくる方もいます。ありがとうございます。なんとか私も、もっと上手に演説をできるようになりたいです。
そんなワケで知り合いのブログを見ていたら、きわめて革命的な演説を紹介しておりました。やっぱり私も、ロックでいこうと思いました。

パワー トゥー ザ ピーポー

投稿者:aoto 03:08 | コメント (0)