今回の能登半島地震。たしかに死者は少なかった。しかし最近の映像を見ていると、やはりそれは、被災者が「難民」化していくのではないかという危惧である。
政治的にまったく無力な存在の生のあり方を哲学者ジョルジオ・アガンベンは、「剥き出しの生」と呼んだ。現代社会において「難民」たちは、政治的に無力になることを通じてかろうじて生き延びることができる。
『魂の労働 ネオリベラリズムの権力論』(青土社 渋谷望)で、渋谷氏は以下のように述べている。
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“あらゆるものを個人のリフレキシブルな自己決定に委ねる社会は、結局、何も決定できず、市場の圧力だけが唯一の現実的な基準となる。”
二大政党が推し進める何でもかんでも《自己責任》という政策。それは、「被災」するのも《自己責任》ということなのであろうか。お金のある人は、《市場》を通して、様々な防災対策を行える=つまりそれは《買える》かもしれない。しかし今や、お金のない人、しかも「地方」の、しかも「高齢者」は、一体どうすればよいというのだ。
渋谷は、さらに言う。
“自己責任言説がハイ・テンションな自己啓発に結びつくことはきわめてまれである。われわれの経験では、自己責任言説は、より低いテンションの宿命論により親和的である。
自己の運命はもはや手の届かない自己の外部にあり、自分ではどうすることもできないものとして立ちはだかっている。
未来との関係性で現在を位置づける生き方はもうできないという感情は、宿命論を受け入れる素地となろう。”
《自己責任》と言われても、果たして《自分》はどうしたらいいのか。。。こういった想いを抱くものは、決して少なくないはずだ。それは結局、《自分》ではどうすることもできない、そういったアキラメの感情とともに、《宿命論》を受け入れることになる。こういった状況を、渋谷氏は、あの1995年の阪神大震災を例に説明している。
“阪神大震災後、仮設住宅が建設され、多くの被災者が入居した。仮設住宅はいわば国内避難民に対する難民キャンプの機能を果たしたといえる。《仮設》住宅とはあくまで《仮》のものとして設置されたわけである。
しかしやがて、市街地の復旧とともに、くしの歯が欠けるように徐々に人の数は減っていき、高齢者、しかもなかでも他に行くあてのない身寄りのない者だけが取り残されるようになっていった。ある意味で、真の「国内避難民」に相当するのは彼らである。というのは簡単に故郷に《帰還》できる、十分な生活力をもつ者は、もはや「難民」ではないからである。
(取り残された)仮設住宅の住人は、しばしば「わけのわけのからない死に方をする」という。何が「わけのわからない」のか?仮設住宅で多発する死は、限りなく自死に近い事故死や病死だからであり、せっかっくあの大震災から命を救い出された者にとってふさわしくないし、またすべきではない死に方のように感じられるからである。~(略)~これを、すでに仮設住宅で使われていた呼び名にならって「孤独死」と捉える。”
この「孤独死」こそ、これから能登半島で増えていくのではないかと危惧せざるを得ない。死者はたしかに少なかったかもしれないが、「未来」を閉ざされ、《自分》ではどうすることもできない、生きていても仕方がない、と《自分》の《宿命》を受け入れ、孤独に死んでいくものが増えていくのではないか。。。
さらに渋谷氏は、ここで《ホーム》という単語に敏感に反応し、《ホーム》が「壊れ」た例として、「強制収容所」、「難民キャンプ」、そして「ホームレス」、そして「仮設住宅」という例を挙げ、これらにおいて《生きていても仕方がない》という感情の共通性を見出す。
ホームレスとは何か?
それは《ホーム=家》を奪われた存在である。
《ホーム=家》を奪われた存在…。それは言い換えれば、「居場所のない」存在である。今、多くの若者も感じている、この社会に《居場所=ホーム》がないという感覚のことである。
そしてこの社会とは、言うまでもなく、《市場》の圧力だけが唯一の“現実的な基準”となっている社会のことである。《市場》に参加できないものは、言うまでもなくこの《社会》から排除されていくのだ。
“震災はこのミニマムな人間関係(=ホーム)を破戒し、彼らを「ホームレス」にし、仮設住宅にいわば棄て去ったのである。この意味でここに残された者たちは棄民となる。また生きる意欲を失うことによって、最終的に彼らは自己自身を棄民に変えてしまう。”
居場所がない。ホームがない。
今、ワレワレは、《自己責任》言説のもとで、ライフラインもセーフティネットも子どもたちの教育も高齢者の福祉も《民営化》され、《市場》の論理だけがまかり通る社会において、結局、誰に頼ることもできず、居場所を失われ、生きていても仕方がないという感覚を抱きながらもはや死んでいるように生きているのである。
この《自己責任社会》、何としても変える。
この《現実》を仕方がないといってアキラメ、《自分》の《宿命》を受け入れるのではなく、「未来」との関係性において、この現実を変えていくこと、それこそが「政治」であると私は思っているからである。


