《自分》とは「違う」ものを排除する。
《自分》とは「違う」ものに対して、えてして人は、「マイナス」な言葉を投げかける。やれ「下品」だ!「バカ」だ!「幼稚」だ!、そして「汚い」!!
「汚物」を排除する、ということ。
それが、《自分》は《正しい》、《自分》は《正常》だ、《自分》は《美しい》、と思い込んでいる《純真無垢な人間》たちのやることである。
以前、私は当ブログにおいて、ある本を引用し、こんなことを書いた。
http://aotokoei.com/blog/archive/2006/11/post_5.php
“体に「障害」のある人たちをテレビに出演させること。 《みんな》の「笑い者」としてさらけだすのは可愛そうだ、 という怒りの投書があったとのことですが、 それは「醜い物」を見たくないという《健常者》の、《マジョリティー》であるがゆえのエゴにすぎない!”
「醜い物」、つまりは《自分》とは「違う」そんな「他者」が「公共」の場に出ることを《怒り》でもって、封殺しようとする輩が蔓延している。
《自分》は《美しい》。そう思い込んでいる輩こそが、「汚物」を排除する、「他者」を排除する。
様々な「違う」人間たちが「共生」すること。それが「多様性」である。
「汚物」を排除し、《美しい》人間どもだけでこの社会を構成しようとする動きには、断固、私は抵抗する。
《自分》とは「違う」ものは「悪」だ。
ゆえに、《私》は《善》だ。
このような《道徳的反動・反感》=《保守反動勢力》=ex《作る会教科書》=《オヤジ慰撫史観》には、私は断固抵抗する。
そして、そんな「汚物」にこそ光を当てる。それを担保するのが「表現」の「自由」であると私は考えている。
「汚物」を排除するという《美しい》人間、というきわめて《汚い》ことをやる人間には、徹底的にダメ出ししていきたいと考えている。
《自分》とは「わかりえない」・「わかりあえない」、そんな「他者」を一方的に、《自分》の都合だけで排除していく。もうお前とは、“縁を切った”と言わんばかりに。そして暴力的に排除していく。それが、《美》なるもの=《純真無垢な主体》=《オトナの顔したガキ》の暴力性である。
《自分》と「他者」とは「違う」のである。それを認め合えることからこそ、「多様性」ある「平和」な社会が到来すると私は考えている。




