《小さな政府》は《大きな負担》
ということで、その《大きな負担》、たとえば増税。その理由として、下記のような言葉をマスコミが垂れ流す“情報”を通してよく耳にします。
《財政赤字》・《景気回復》、そして《少子高齢化》。それでは、この《現実》を、すべて疑うことから始めてみたいと思います。
■《財政が悪化している》、だから財政を《健全》化しなければならない!
■《景気が回復》してきたから、そろそろ《増税》の時期ではないか
ということで、たとえば郵政《民営化》のように、とにかく《民営化》しなければならない!といった“情報”を信じこまされていた方には、こんな本をオススメいたします。
本書の“はじめに”より引用いたします
“私は毎年、ニューヨークやワシントンの会議に出席し、多くの要人に会い、アメリカ経済や日本経済について意見交換をしている。彼らには、
日本が財政危機だという認識はまったくない。
…日本国民は騙されている
政府発表の統計や説明にも、一面だけを強調して全体像を示さずに、
国民を増税に追い込もうとする意図がみられるようである。
…現在、日本の政府や
政府寄りの識者(学者や通称エコノミスト)は
「財政赤字からの脱却には緊縮財政と増税しかない」といった、極めて幼稚な対策しか思いつかない。”
そういえば、マスコミに登場するのは、最近、本当に、政府寄りの識者ばかりになってしまいました。たとえば、政府批判をしていた植草一秀教授は、思いっきり消されました(?)。“痴漢”ということらしいですが、これもやはり疑ってかかってもよいのではないでしょうか?????
社民党の保坂さんがタウンミーティングの《やらせ》を追求していますが、この《やらせ》をプロデュースしていたのは某・広告《代理》店です。一体、何を、《代理》しているのでしょうか?
そういえば、あの《郵政民営化》のときも、某・広告《代理》店を使ってキャンペーンを展開したのは、今となっては有名な話です。
国民をバカにするのもいい加減にしてください、と言いたいところですが、広告制作の基本は、“情報の受け手をバカだと思え”と聞いたことがあります。「わからない」ことよりも、《わかりやすさ》が求められます。 残念ながら。
※脱線ですが、《わかりやすさ》が求められる時代ですが、こんな意見にも、たまには耳を傾けるのはいかがでしょうか。
《わかりやすさ》とは、《わかる》とは、「わからないもの」を排除することでもあります。それは「わからないもの」・「わかりあえないもの」、つまり「他者」を排除することでもあります。そうは言っても、この社会を成り立たせるには、「わかりあう」ことも必要です。「わかりあう」ためには、「論理・理性」を使う必要があります。ただ、この「論理」とは、まさに「分ける」ことです。「分ける」からこそ「わかり」ます。
しかし、その「わかった」瞬間に、「わからないもの」がこぼれ落ちていきます。だからこそ、たえず、「わかる」と同時に、「わからないもの」への感受性が必要なのではないでしょうか。たとえば“若者はだらしがない”といったレッテルを貼って、《わかった気取り》になることだけは十分にさけてほしいと思います。
わかればわかるほど、分ければ分けるほど、「わからないもの」もでてきます。そういえばソクラテスは、「世界はわからない、ということがわかった」みたいなことを言いました。これぞ「無知の知」です。
社会を改良することに終わりはありません。《社会》の「外」には、《みんな》の「外」には、たえず「わからないもの」=「他者」がいるということを忘れてはいけないと思います。
■《少子高齢化だ!》。介護保険料を上げると同時に、介護の民間委託も必要だ!みたいな
とにかく広告《代理》店に支配されているマスコミの“情報”は、すべて疑ってみたいと思います。
とにかく断片的な《情報》だけで、なんだか《わかった》つもりになることだけは断固しないよう、私は心がけようと思っています。
そしてこの《格差社会》。同時に、《情報格差》も進んでいます。その《情報》を操作するのが《スピンドクター》と言われている人たちです。あらゆる《代理=広告》を使い情報を作っていきます。
そもそも広告とは、基本的にはモノを宣伝するものでした。しかし今や、その広告こそが権力と化しています。モノから切り離され、《広告・宣伝・プロモーション》の良し悪しで、あらゆる決定がなされるようになっています。たとえば、政策の中身そのものを検証するより、《うまくプロモーション》したほうが選挙で勝つみたいな時代です。
さらには、株などの金融商品。金融商品というのは、まさにモノではなく《虚構》が売り買いされているようなものです。モノとの「交換」という機能を果たした「貨幣」が、今やモノ自体と切り離され、完全に《マネー》だけがあっちに行ったりこっちに行ったりしながら、儲けの対象となっている時代です。
まさに《representation》が暴力と化しているです。
《re-presentation》:代理、表現、そして代表制という意味もあります。
代表制、まさに政治は、国民の、代表です。
しかし今や、その代表である政治家が、完全に国民と切り離され、「代理」としての機能をはたしていないのではないでしょうか。《代表》である政治家が、まさに《代表》《代理》なる権力と化しています。
これでは政治に無関心な人が出てくるのは当然です。政治に期待したって何も変わらない。どーせ変わらないんだったら、期待なんかしないほうがいい。期待して裏切られ、傷つくくらいなら、はじめから何も期待しない。信頼しない。まったく当然のことだと思います。
しかし、まさにそのおかげで、《代理》なる権力=政治家(屋)は、国民から切り離され、国民がシカトしてくれるおかげで、《自分》たちにだけ利益があるようなことをヤリタイ放題、決めています。身震いするほど、腹がたちます
だからこそ、あおと功英、断固たる決意でもって、
期待に応えられる「政治」を行っていきたいと思います。