朝っぱらから、テレビは“ガケっぷちワンちゃん”報道一色です。ガケっぷちアイドルと言えば、くまきりあさ美ですが、まさに時代は“ガケっぷちだなぁ”と思いました。今まさに、この私も、いろんな意味で“ガケっぷち”です。
ところで、精神科医でエッセイストの斉藤茂太さんがご逝去されました。「人生にユーモアを」と斉藤さんは本に書かれていました。私もよく、コンビニに置いてある自己啓発系の文庫本コーナーあたりで、斉藤さんの本を手に取ったことを記憶しています。
私の人生も「ガケッぷち」ですなどと書くと、ふざけたことをブログに書くななどと多々言われますが、やはり私としては「ユーモア」を大事にしたいと常々思っています。なぜなら、「ユーモア」には「私」を「自由」にする力があるからです。ちなみに私の卒論のテーマは、ズバリ、「マゾヒズム」でした。
昨今、「気に食わない」・「ムカつく」といった、要は価値観の「違う」他者に対して《皮肉》を言って、少しでも《自分》がラクになろうとするコミュニケーションが横行しているかと思います。 たとえば、「他者」を皮肉ることで面白がって《自分》の優位性を保とうとする《笑い・哂い》を、テレビのバラエティ番組などでよく見かけます。ちなみに日テレの『エンタの神様』あたりに出てくるお笑い芸人は、ほとんどが《皮肉る笑い》か《あるあるネタ》ばかりでかなり私は飽きています。その意味で、きわめて「自虐的」なネタを得意としていた“ヒロシです”はよかったのですが、ただ、《あるあるネタ》に近かったのが難点でした。
もちろん時として、《自分》の《正しさ》をプロパガンダし、その《正しさ》を信じ込んでいる者に対して皮肉ることは有効なときもあるかと思います。権力者を皮肉る「パロディ」などはその例かと思います。
ちなみに私の崇拝していたザ・ドリフターズのコントは、やはり史上最狂であったと私は今でも思います。もちろん暴力はよくないと言ったご批判もあるかと思いますが、彼らは絶対に昨今ハヤっているような「他者」を「バカ」にするようなコントはしませんでした。あくまでも「自分」たちこそが「バカ」に徹していました。
ちなみに『8時だよ全員集合』という「オバケ」番組がありましたが、そこにはかつて「小人プロレス」の人たちも登場していました。映画監督の森達也さんが映像に記録しています。
▼森達也公式サイト
http://www.jdox.com/mori_t/works.html
▼『君は小人プロレスを見たか』(幻冬舎・高部雨市)
体に「障害」のある人たちをテレビに出演させること。 《みんな》の「笑い者」としてさらけだすのは可愛そうだ、 という怒りの投書があったとのことですが、 それは「醜い物」を見たくないという《健常者》の、《マジョリティー》であるがゆえのエゴにすぎない!と本書は語っています。
《みんな》とは「違う」。《自分》とは「違う」。つまり、《みんな=自分》とは違う「他者」に対して、よく《みんな》は、なんだアイツは!とかキモイ!とかウザイ!とかバカじゃねーの!とか言って「他者」を排除する方向性に向かったりします。そんなとき、「キモイ私」「バカな私」、そして「負け組である私」であることに人は悩み、できるだけ《みんなと同じ》になろうと、《イケテル勝ち組》になろうと必死に《再チャレンジ》しようとしたりします。もちろん、そんな《再チャレンジ》などに興味のない人は「引きこもったり」もします。
ちなみに「ひここもり」には、正直「やさしい」人が私の実感では本当に多いと思います。「ひここもり」は「だらしがない」と言った言説、いわゆる昨今ハヤっている若者バッシングによって、《わかった》気になり、その背景にある社会構造への冷静な分析が忘却されているような気がしてなりません。たとえば、「ニート」・「フリーター」への「だらしがない」批判によって、その背景にある労働環境の変化に対する冷静な視座が、ここ数年本当に欠けていたと思います。
他者を皮肉ることよりも、まず《自分》を皮肉る。他者をバカにするなら、まず《自分》をバカにしてみる。「バカ」な「私」、「弱い私」、「負け組」としての「私」、「難民」としての「私」、「マイノリティー」としての「私」、すなわち、《自分》の中にある「マイナー性」を想像すること、《自分》のなかの「他者性」を想像すること、「他者」に「汚染」されている「私」を想像すること、それが「他者」への想像力につながり、それが「マゾヒズム」の真髄であると私は考えています。それは時に、人生を豊かにし、豊穣にし、面白くする。つまり、「ユーモア」のある人生になるのではないかと思います。
「私」とは「他者」に「汚染」されている。これぞ「マゾヒズム」の真髄。きわめて美しいと感じます。《自分と同じ》者同士で固まること、すわなち他者に「汚染」されていない純真無垢な《ピュア》な共同体、つまり《美しい国・愛国心》にはまったくもって辟易いたします。